ニュート・スキャマンダーの主人公性(ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生)

こどもの頃からハリー・ポッターシリーズのファンである。

J.K.ローリング脚本の新シリーズも楽しみにしていたのだが、第1作を観た正直な感想は主人公ニュート・スキャマンダーの影が薄すぎる…というものだった。

ハリーはヴォルデモートに両親を殺害され自らも死の呪いを受けながら生き残るという、主人公成分を濃縮したような主人公である。対してニュートは魔法生物の研究者であり、新シリーズにおける最悪の闇の魔法使いグリンデルバルドとの接点は特にない。さらに個性豊かな脇役―途中退場が惜しまれる存在感のグレイブス、髪型の主張が強すぎるクリーデンス、魅力あふれるクイニーなど―に圧され、どうも人物像が伝わってこない。要は、なぜニュートが主人公としてグリンデルバルドと戦わねばならないのかが分からなかったのだ。

ところがシリーズ第2作においてグリンデルバルドの野望への道筋が示されたことで、対立する存在がニュートでなければならない必然性が見えてきた。物語の対立軸が明確になり俄然おもしろくなってきたので、ここで一度整理しておきたい。

 

※以下の文章は「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」を鑑賞済みの方に向けて書かれています。

 

本作のみどころは何と言っても終盤のグリンデルバルドによるスピーチだろう。公式の英語字幕を見ていないので不正確かもしれないが、一部訳出してみた。

 

It is said that I hate the Non-Magiques, the Muggles, the No-Majes, the Can’t-Spells. I do not hate them, I do not. For I do not fight out of hatred.

世間では私がマグルを憎んでいると言われているようだ。しかし私はマグルを憎んでなどいない。これは憎しみのための闘いではないのだから。

I see the muggles are not lesser, but other. Not worthless, but of other value. Not disposable, but of a different disposition.

マグルが我々より劣っているとは私は思わない。ただ我々とは違うのだ。マグルは価値がないのではなく、違う価値観のもとで生きている。使い捨ての存在ではなく、我々とは違う性質を持っている。

Magic blooms only in rare souls. It is granted to those who live for higher things. Oh, what a world we would make for all of humanity. We who live for freedom, for truth, and for love.

魔力は稀有な魂のもとでのみ花開く。高い志を持つ者にのみ授けられる。ああ、すべての人類のために、我々がどんな世界を作り上げられることか。自由のために、真実のために、そして愛のために生きる我々が。

(訳:ひので)

 

ハリー・ポッターシリーズですでに明かされているように、グリンデルバルドは魔法族による非魔法族の完全な支配を目論んでいる。「劣っているのではなく違うのだ」などとうそぶいているが、彼自身は非魔法族を支配され虐げられて当然の存在だと考えている。

しかしそのようなイデオロギーを公然と打ち出したのでは多数の賛同者は得られず、目的も達成できないだろう。そこで彼はこのスピーチで、魔法族と非魔法族との間に巧妙に線を引いてみせた。両者は「違う」存在であり、魔法族が世界を支配することがむしろ非魔法族のためにもなるという。差別ではなく必要な区別だと主張することで、聴衆の心にひそむ非魔法族への差別意識を正当化したわけだ。

人は多様なものである。魔法族であれ非魔法族であれ一人ひとりが独立した人格を持っている。ひとつの特性にのみ着目して線引きをすることにどれほどの意義があるのだろうか。すくなくとも、支配者の目的をかなえるためだけの作為的な線引きなど是認すべきではないはずだ。

さて、ここで俄然意味をもってくるのが主人公ニュートの生き様である。彼は線を引くということを一切しない。魔法生物の研究者である彼は、あらゆる生物をあるがままに愛している。それを象徴するように、彼の魔法のスーツケースの中には多種多様な生物が一緒くたに暮らしている。私利私欲とは無縁な彼だからこそ、どのような混沌を前にしても利己的な線引きをせず、そのまま受け入れられるのだろう。

この点をもってニュートはグリンデルバルドと真っ向から対立することになり、従って彼は本作の主人公たりえるわけだ。

 

あらゆるものに線を引かないニュートのスタンスに関連して、リタ・レストレンジとの関係にも触れておきたい。

前作での印象は、内気なニュートが兄テセウスの婚約者であるリタに片想いをしていたというものであった。しかし本作で2人の過去が明かされ、印象が大幅に修正された。

リタは魔法族の旧家の生まれであるが、母親は早くに亡くなり、父親は後継ぎとなる弟だけに目をかけリタを無視してきた。心に傷を抱えた彼女はホグワーツでも孤立し嫌われている。そんな彼女に声をかけ親しく接してくれるのはニュートだけだった。リタが彼に恋をするのは自然な成り行きだったと思う。

しかしニュートがリタを気にかけたのは彼女が傷ついていたからにほかならない。怪我をしたカラスの雛を2人が保護する場面は印象的である。ニュートは傷ついた雛に手を差し伸べるのと全く同じ優しさでリタに手を差し伸べたのだ。助けを必要とする者がいれば、彼はそれがリタでなくとも同じように助けようとしただろう。

ニュートの好意はリタが望んだものとは違った。その生い立ちゆえに他者からの愛情に飢えていた彼女は、非常に強い承認欲求を抱えていたはずである。彼女は「他の誰でもない特別な存在」として愛されたかったのであり、それはニュートからは得られなかった。やがて成長したニュートがリタを異性として意識することもあっただろうが、その時には彼女は自身をただ1人の女性として愛してくれるテセウスを選んでいたのだと思う。

 

混沌に作為的な線を引こうとするグリンデルバルドと、混沌を混沌のまま受け入れるニュート。多様性を重視する現代社会らしいテーマだと思っていたのだが、J.K.ローリング自身が性の多様性に逆行する発言をして物議を醸しているらしい。

ファンタスティック・ビーストシリーズがこの対立にどのような答えを見出すのか、続編を待ちたい。